展覧会について
 「荒野のグラフィズム:粟津潔展」は、ノート、ドローイング、未発表作品、実験映像、新資料を含め、金沢21世紀美術館が所蔵する約2600点に及ぶ粟津潔作品より 主要な1750点を一堂に展観し、有形無形の粟津芸術の全貌を捉え、その現在性を問いかけようとするものです。
 粟津潔は、「私はすべての表現の分野に、その表現の境界を取り除くだけではなく、階級・分類・格差・芸術に現れた上昇と下降も、取り除いてしまいたいと決断する」 と述べ、あらゆるジャンルを横断して実験的な表現に挑みました。第二次世界大戦後の日本の混乱期に独自の表現活動をスタートした粟津は、 日本におけるグラフィック・デザインの礎を築き、常に同時代の世界を見晴らしながら、絵画、ポスター、版画、ブックデザイン、建築、音楽、映像、パフォーマンス、 演劇など多様な領域を縦横無尽に往来してきた奇才であると言えるでしょう。
 生後間もない頃に鉄道事故で父を失った粟津潔にとって、事故の新聞記事と三枚の肖像写真だけが父の存在を感得する手がかりでした。 退役軍人や建具師や工員といった近所の様々な職業人に囲まれながら、「街が私を育ててくれた」とも言います。敗戦後、東京で職を転々としながら映画と 美術雑誌を教科書がわりに独学で絵を描き始めた頃の粟津は、山手線の車中や路傍の人々をモデルに夥しい量の素描を残しています。 ポスターの作品《海を返せ》による1955年日本宣伝美術会賞受賞を皮切りに、デザインの道へ、そして印刷技術によるイメージの複製と量産の領域へと接近した粟津は、 「すべては荒野だった。グラフィックという言葉も存在していなかった。」と当時を述懐しています。 粟津潔は、近代の複製技術によって機械的に自己増殖する視覚メッセージに日常の隅々まで覆い尽くされる現象を「グラフィズム」と捉えつつ、 この時代状況に対してむしろ土俗的とも前近代的ともいえる表現手法を直感的に探り当て、粟津の流儀を確立します。
 独自の線描の世界を拓きながら粟津は、1960年代には指紋、手相、地図、印鑑、1970年代には亀、烏、椿、モナリザ、阿部定といった、 特異にして且つ大衆的な図像を巡礼します。さらにチェロ奏者のカザルスによる「鳥の歌」の演奏を聞き、幼心に抱いた輪廻の意識を想起して鳥を描き始めた という粟津は、1980年代以降、地球環境と人間の文明の有り様に強い関心を寄せ、自身の原点回帰の思考の旅を、先史美術の岩刻画や民族美術としての象形文字など、 より一層時空を超えた対象へと視座を拡大します。これらの図像の遍歴は、極めて根源的な存在の深淵に発するものであり、 今なお粟津潔は荒野に独り立ち続けていると言えるのではないでしょうか。

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